イラ立ちが教えてくれたこと。身近な人にモヤモヤするとき、私の中に隠れていた「禁止ルール」

自分と向き合う

身近な人の言動に、いつもモヤモヤする瞬間がある

身近な人の言動に、いつもモヤモヤする瞬間がある。 私にとってそれは、父の姿だった。

コミュニケーションがぶっきらぼうで、それでいて「分かってほしい」「認めてほしい」という気持ちが透けて見える。分かってくれない、やってくれない、と相手を責める。でも自分の態度を振り返ることはない。

走馬灯のようにそんな姿を見るたびに、なぜ振り返らないんだろう、振り返るべきなんじゃないか、という気持ちが湧いていた。

「やってはいけない」という自分への制約

そのモヤモヤをじっと見つめていくと、自分の中にある強い思い込みが見えてきた。

  • 「嫌な態度を取るべきではない」
  • 「相手の気持ちを考えて行動するべきだ」
  • 「自分ができていないなら、相手には言ってはいけない」

そういうルールを自分に課して、そのためにずっと我慢している自分がいたのだ。

  • 自分が我慢していることを、相手が平気な顔をしてやっている

そう気づいたとき、ハッとした。自分がルールを守るために必死に払っているコストを、相手は払わずにそのまま生きているように見える。だからこそ、理屈抜きの理不尽さを感じて、私の中に強いイラ立ちが生まれていたのだ。

イラだちは、自分からの「お知らせ」だった

さらに一歩深く見ていくと、このイラ立ちの本当の正体が見えてきた。

私は本当は、言いたいことがある。表現したいことがある。でも、自分の中の厳しい制約がそれを止めている。

「言いたいことを言えない状態にあるよ」ということを、目の前に現れた「制約なく言いたいことを言っている人(父)」を見ることで、イラ立ちという形を借りて自分自身に教えてもらっていたのだ。

相手が悪いわけではなかった。自分の中に、まだ出せていない大切なものがある。そのサインとして、イラ立ちが立ち上がっていただけだった。

➔ 「相手を変えよう」とすることの手放し

もうひとつ気づいたことがある。「相手が変わってくれないかな」と、心のどこかでずっと思っていた。相手がそのままの状態でいることを、私はそのまま受け取ることができていなかった。「相手はこうでなければならない」という思い込みが、まだそこにあったのだ。

けれど、そこに良い悪いはない。 できる人もいるし、できない人もいる。できる時もあれば、できない時もある。

「ただ、そうだったんだな」と受け取ればいい。その上で、相手が本当に伝えたいメッセージは何なのか、何がしたいのかに目を向ければいいのだ。

これからのスタンス

そして、今までそれができなかった自分を責めるのも、また違う。今回、それに気づけただけで十分に素晴らしいことだ。

言いたいことがあるのに、言えていない。まずはその現状に気づけたことが、次への大きな一歩なのだと思う。

これからは、イラ立ちが湧いたときこそ「あ、自分の中にまだ我慢している何かがあるんだな」と、自分をさらに自由にしてあげるためのヒントとして受け取っていきたい。

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