最近、ある YouTube の動画で「すべては自分を映したものである」という言葉に出会いました。それをヒントに、感情が動く場面を見つめ直すようになったので、気づいたことをまとめます。
感情が動くとき、そこに自分の前提がある
誰かの言動や出来事に対して「嫌だな」と感じるとき、その裏には「これは良いこと」「これは悪いこと」という自分の前提があります。その前提が外に映し出され、それを感じるために、そういう出来事が起きているのではないか。そう考えると、見るべきは相手ではなく、自分の側にある基準なのだと思うようになりました。
例① 見た目で決めていた自分
見た目がいかつい人を見ると、「怖いな」「苦手だな」と感じることがあります。けれど、実際に話しかけてみると、丁寧に対応してくれたり、声がとても優しかったりする。そんな体験が何度かありました。
そのとき気づいたのは、怖かったのは相手ではなく、見た目だけで「こういう人だ」と決めていた自分の思い込みだったということです。もし、思い込んだまま避けていたら、「やっぱり怖い人だった」と確認する機会すらなく、その前提は強化されていたかもしれません。
例② 妻の言動で気づいた、自分の「べき」
もっと身近な例があります。以前、私が妻に言っていたことと、まったく反対のことを妻がしている場面がありました。しかも、そういうことが何度か繰り返されていました。
言っていたことと違う。矛盾している。そう感じて、モヤモヤしている自分がいました。
そこで立ち止まって考えてみると、私の中に次のような前提があることに気づきました。
そんなことをしてはいけない。
言ったことは守らなければいけない。
本来、どんな人がどんな行動をとっても、どんなことを思ってもいいはずです。それなのに私は、「矛盾してはいけない」という自分のルールを、妻に映していたのです。
妻の行動が私を嫌な気持ちにさせたのではなく、妻の行動を通して、自分のルールが見えてきた。そんな場面でした。
例③ 相手を下に見ていた自分
最近出会った方に、私と同じように、気になったことはまず行動してみるタイプの人がいます。行動力がとても似ていると感じていました。
その方が、私がかつて取り組んでいたせどりや、Amazon でのお店づくりで、大きな失敗をされている姿を見ました。そのとき私は、「そんなふうにはなりたくない」「自分は違う」「自分はできるようになるんだ」と思っていました。
気づけば、その方を少し下に見るような気持ちになり、あまり会って話したくないとさえ思っていたのです。
なぜだろうと見つめてみると、行動力という点で、自分と重なる部分があったからだと分かりました。自分も同じ失敗をするかもしれない。そうなったら嫌だ。そんな不安があったのです。その不安と向き合う代わりに、先に大きな失敗をしている相手を下に見て、「自分は違う」と思おうとしていました。
相手が嫌だったのではなく、自分の中にある「失敗したくない」という恐れを、相手に映して見ていたのだと気づきました。
相手が「見せてくれている」もの
自分に何かされたわけでもないのに、他人の行動に嫌な気持ちが湧くことがあります。「そんなことしてはいけないのに」「未熟だな」「ああはなりたくないな」。そう感じるとき、相手は「自分が何を恐れ、何をいけないと思っているか」を見せてくれているのだと思います。
言葉にすると、受け入れられる
感じたことを言葉にしてみると、「そういう自分もいるんだな」「自分はこれを恐れているんだな」と分かってきます。そして、そう思っている自分を受け入れる、あるいは直視できるようになります。こうした気づきが最近立て続けに起きていて、物事の見方が少しずつ変わってきました。
「嫌だと思ってはいけない」も、自分の一部
正直に言うと、「嫌だと思ってはいけない」と考えてしまう自分もいます。でも、それを押さえ込まずに、ありのままに「自分は今、嫌だと思っているんだな」と認めてみる。そのうえで「なぜだろう」と問いかけてみる。
嫌な思いはしたくありません。けれど、そこには自分の思い込みや、普段は見えなくしている自分が隠れています。だから心が動いた瞬間は、自分と向き合えるチャンスだと思うのです。
心が動いたとき、新しい自分と出会える
嫌だな、と心が動いたときは、新しい自分と出会えるタイミングなのかもしれません。これからも、その瞬間を見逃さずに見つめていきたいと思います。


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