事実と物語を分けてみたら、肩の力が抜けた

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本業の仕事を辞めました。

そして、そのことを自分の両親にも、妻の両親にも、まだ伝えていません。

「バレたら大変なことになる」
「きっと不安にさせてしまう」

そんなふうに、ずっと思っていました。今回は、それが事実ではなく、自分が勝手につくった物語だったと気づいた話を書いてみます。

娘の誕生日に起きていたこと

先日、娘の誕生日に、両親がプレゼントを持って夕方に来てくれました。

普段のその時間、自分は仕事の姿をしています。でもその日は仕事をしておらず、キッチンに立っていました。

「仕事は?」と聞かれたらどうしよう。
辞めたことを説明して、納得してもらわないといけないのか。
「どうするつもりなんだ」と聞かれても、答えられない。

そんな不安が頭の中をぐるぐるして、せっかくのお祝いの時間を、なかなか楽しめませんでした。

翌日も同じでした。義母に「なんで言わないの」「説明する義務があるんじゃないの」と言われるのではないか。そんなことばかり気になっていました。

「仕事をしていない=ダメ」という前提

立ち止まって考えてみると、自分の中にはこんな前提がありました。

  • 仕事をしていないのはいけないこと
  • 稼いでいないのはダメなこと
  • 将来の保証がないのは、周りに受け入れてもらえないこと

でも、現実はどうだったか。

辞めたことを周りの人に話すと、「いいですね」と言われることが多いんです。自分の考えを話して、批判されたことは今までありません。「いいんじゃない?」と言ってくれる人ばかりでした。

それなのに、自分の中だけは「ダメなんじゃないか」と思い続けていたんです。

不安にさせてはいけない、という思い込み

もう少し掘ってみると、こんな思い込みも見えてきました。

  • 不安を感じるのはいけないこと
  • 誰かに不安を与えるのはいけないこと
  • その不安を解消するのは、自分の責任

たとえ相手が不安になったとしても、それは本来、相手の課題です。それなのに、相手の不安まで自分が引き受けようとしていました。

これは、自分の優しさの特徴である「共感」が働いた結果でもあると思います。でも、その優しさが、自分を苦しめる方向に働いてしまっていました。自分に対してOKが出せていない部分や、自分自身の不安も、まだ残っているんだなと感じました。

サングラスをかけて物語をつくっている

先日見たYouTubeの動画に「すべて自作自演」という内容がありました。その中の、「人はサングラスをかけて、事実を偏って見ている」という例えがとても印象的でした。

事実があって、そこに自分が意味をつけて、物語をつくる。そして、その物語が現実になったら怖いと思い込んでいる。

それが、今回の自分に起きていたことでした。

昨日、道端に大人が3人座り込んでいるのを見かけました。正直、あまりいい印象は持ちませんでした。

でも近づいてみると、そこには犬がいて、3人はその犬を囲んで座っていただけだったんです。それを知った途端、受け取る印象がまったく変わりました。

事実は「大人が3人、道端に座っていた」だけ。「よくない人たち」というのは、自分がつけた意味でした。

自分は事実から偏った見方をしている。それを、頭だけでなく実感を伴って体験できた出来事でした。

これから

これからは、次の2つを分けて見ていきたいと思っています。

  • 事実は何か
  • そこから、自分はどんな物語をつくっているのか

両親の反応が気になるのも、自分の今の不安があるからこそ。そこを分けて考えられるだけでも、気持ちが違ってきます。

そして、どう思われても大丈夫なんじゃないか、とも思いました。相手の反応は自分にはどうしようもないし、今までもそうでした。それに、たとえ仕事をしていたとしても、将来が保証されているわけではありません。

そう考えると、「何が良くて、何が悪いか」という話ではなくなってきます。

ありのままの今の自分と、ありのままの相手を受け取る。今回の気づきは、そのためのヒントになりそうです。

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