これは自分を責めるための記録ではなく、これからどう関わっていきたいかを考えるための記録として書いている。
あるメルマガを読んで
あるメルマガに、こんな話があった。新しいことに手をつけられずにいた人が、深掘りして話を聞いてもらった結果、「要領が悪くてできない自分を味わうことへの抵抗感」が、行動を先延ばしにする理由になっていたと気づいた、という話だった。
そこから書かれていたのは、「できない、大したことない自分」を受け入れることの大切さだった。それを受け入れずに「できてます」とアピールし続けていると、そのアピールにエネルギーを使い果たして、前に進む力が残らなくなる。逆に、その痛みを一度受け入れてしまうと、そこから力を取り戻して、現実的に前に進めるようになる、という内容だった。
読みながら、自分が受け入れられていない「できない自分」とは何だろうと考えてみた。
気づいたこと ―― 「誰かを不快にさせる自分」
出てきたのは、「誰かを不快にさせてしまうかもしれない自分」を、自分がずっと受け入れられずにいた、ということだった。
自分がやりたいことがあっても、それによって誰かが嫌な気持ちになるかもしれないと思うと、そこでブレーキがかかる。そしてブレーキがかかること自体を、いつの間にか「仕方ない」と諦めてしまっていた。
具体的な場面が、いくつも思い当たった。
病院に付き添った時、受付の方の表情に目が笑っていないように見えて、敏感に反応している自分がいた。実際には何も起きていない。ただ相手の目の情報から、勝手に「感じが悪い」と判断していただけだった。生徒の表情が気になってしまうのと、まったく同じ反応だった。
義理の母に、子供たちの世話を頼むことが最近増えている。頼むたびに、相手を怒らせないだろうか、困らせないだろうかと心配になる。でも冷静に考えれば、それをどう受け止めるかは相手次第で、断るという選択肢だって相手にはある。それなのに、「不快にさせてしまうかもしれない」ということだけにエネルギーを注いで、自分の行動を制限し続けていた。
加害と被害のレンズ
こうして並べてみると、対象は違っても、いつも同じレンズを通して物事を見ていたことに気づいた。「自分の何かが、誰かの機嫌を損ねているんじゃないか」。それは自分自身だけでなく、家族や友人にまで広がっていた。誰かに間違ったことをしていないか、嫌な思いをさせていないか。いつも「加害と被害」という前提で、勝手に心配し、不安になり、そう解釈してきた。
このレンズがいつからあるのか考えてみると、幼い頃からだったと思う。誰かの機嫌が突然悪くなったり、キレたりする場面が怖くて、警戒するようになった。誰かが誰かの愚痴を言っているのを聞いては、身構えていた。自分がそうしないように、されないように。それだけの間、ずっと周りを見張り続けてきたんだと思う。それは、弱さというより、誰も傷つけたくないという優しさから育ってきたものだったのかもしれない。
レンズを外から見る
今、そのレンズにようやく気づき始めている。今までは無意識にそのレンズを通して世界を見ていたけれど、今は「あ、またこのレンズで見ているな」と、少しずつ外側から眺められるようになってきている。
レンズがすぐになくなるわけではないと思う。でも、それを外から見られるようになったこと自体が、もう同じようには縛られなくなっていく最初の一歩なんだと思う。
今回の気づきのきっかけになったのは、あるメルマガで語られていた「できない自分を受け入れる」という話だった。受け入れがたい部分を避け続けるのではなく、まず認めるところから、次のステージが開かれる。そんな内容に触れて、自分の中の「受け入れられていないもの」に、初めて言葉をつけられた気がする。


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